わかる!バイオテクノロジーとファイナンスの新常識
今、世界中の注目を集めている米国の企業がある。10x Genomics(10エックス・ジェノミクス)。すべての生物の最小単位である1つの細胞を調べて病気が発症するメカニズムを解き明かす最先端の技術、「シングルセル(単一細胞)解析」を手掛ける。
同じ感染症にかかった時に重症になる人と軽症で済む人は何が違うのかーー。2020年以降、世界中を恐怖に陥れたCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)の研究では同社の技術が重症化のメカニズムの解明に貢献している。
こうした技術の優位性に加え、2012年の創業後、7年という短期間でIPOにこぎつけた同社の動向はバイオ業界のファイナンスの新潮流としても注目に値する。スタートアップ投資において、バイオを含むヘルステックはSaaSなどソフトウェアと並ぶ、今最もホットな分野。同社はそうしたバイオ関連のスタートアップの大型調達に先鞭をつけ、ファイナンスのニュースタンダードになろうとしている。
細胞単位で病気の謎を解き明かす、10x Genomicsの正体
シングルセル解析を自動化した機械や試薬などの販売を手掛ける10x Genomics(以下、10x)が設立されたのは2012年。2021年にSPACを使って上場した遺伝子検査の23andMeで創業時にリサーチ責任者を務めたサージ・サクスノフ(Serge Saxonov)と、デジタルPCR検査を手掛けるQuantaLife(クオンタライフ)の共同創業者であるBen Hindson(ベン・ハインドソン)によって立ち上げられた。
創業後の同社の資金調達には目を見張るものがある。設立の翌年(2013年)にはシリーズAで2240万ドル(約25億円)、2014年にシリーズBで5550万ドル(61億円)、2016年にシリーズCで7500万ドル(83億円)、2018年~2019年にはシリーズDで8500万ドル(94億円)を調達。創業後、毎年のように調達に成功し、未上場時の総調達額は合計2億4260万ドル(267億円)となった。
そして設立からわずか7年後の2019年に米ナスダック市場に上場を遂げる。IPO当日は公開価格(39ドル)を約4割上回る初値が付いた。それから約2年間で株価は大きく上昇し、2021年6月23日現在の時価総額は221億ドル(約2兆4300億円)まで膨らんでいる。東証上場企業のうち、この規模の時価総額を有するのは上位たった2%しかない。
注:文中はすべて1ドル=110円で為替を換算。
なぜ、設立間もない企業がこれほど順調に資金調達を重ね、上場までこぎつけることができたのか。その理由の1つが同社のビジネスモデルにある。
バイオ系の代表格といえる創薬ベンチャーは注力する薬の開発が順調に進み、上市に至れば莫大な収益を生み出す。だがそこに至るまでは長期間売上が立たず、R&D(研究開発)の費用が先行して赤字が続く。
一方、10xはシングルセル解析技術を開発し、それを汎用的に使えるようにする機械と試薬を販売するビジネスモデル。機械や試薬を販売した時点で売上が立つ。同技術が注目を浴びる中で、アカデミアや製薬会社の研究部門向けに順調に販売実績を積み上げてきた。同社が2019年の上場時に提出したS-1(目論見書)によると、2017年12月期に7100万ドル(約78億円)だった売上高は翌期に2倍の1億4600万ドル(約160億円)まで伸びている。
ちなみに2018年12月期は約40カ国で機器と消耗品を販売し、世界の製薬会社のうち、売上高上位15社のうち13社が顧客になっていたという。
創業から数年で売上を立て、成長の可能性を数字で明示することができる。だからこそ投資家の支持を得られた。また、同社のビジネスモデルは未上場時の株主構成にも影響を及ぼしている。
同社の株主には従来からバイオテックやヘルスケアに強いVCであるVenrockやForesite Capitalだけでなく、Facebook、SnowflakeなどIT大手への投資実績が豊富なMeritech Capital Partnersやソフトバンクが並ぶ。
従来、バイオやヘルスケアなどのライフサイエンス業界は「創薬」「医療機器」と、特殊ペプチドを供給し、他の製薬会社と新薬を共同開発するペプチドリームのような「創薬プラットフォーム」の3つに主に分かれてきた。だが、10xのように新しい技術を提供する企業が出てきたことでこうしたこの区分が曖昧になってきている。
旧来の医薬品・医療機器では括れない形のデバイスやソフトウェア、サービスなど新しいアプリケーションが出ているほか、創薬プラットフォーム型企業が自ら創薬に乗り出すケースも見られる。さらに膨大な遺伝子データの解析技術やその精度も成長を占う上で重要な要素となる。こうした背景から、10xの株主にはIT系のVCや企業が加わっていると言える。
幅広い投資家から集めた潤沢な資金を活用し、同社は未上場の時から積極的に投資してきた。2018年12月期の研究開発費は4750万ドル(52億円)。さらに2018年には総額6240万ドル(69億円)を投じて米Epnomics(エプノミクス)やスウェーデンのSpatial Transcriptomics(スぺ―シャル・トランスクリプトミクス)などを買収し、シングルセル解析のプラットフォームとして機能を拡充してきた。同年の売上高(1億4600万ドル)の7割強を買収と研究開発に充てた計算になる。
バイオで最注目の「シングルセル解析」
これほどまでに急成長を遂げている10xが手掛ける「シングルセル解析」とはどのような技術なのか。
ヒトの遺伝情報の解明を目指す「ヒトゲノム計画」が完了したのが2003年。その後、次世代シークエンサーなどの機器が出てきて迅速な解析が可能になったことで、より一般化してきた。しかし、従来の遺伝子解析は何十万個という細胞を培養液で溶かし、全体の傾向を見る手法。その中に希少な性質を持つ細胞が隠れていてもその特徴を捉えることが難しかった。
そこで、2010年頃からアカデミアでは1つ1つの細胞ごとに遺伝子の特徴を見る「シングルセル解析」が脚光を浴び始める。ただ、「1つの細胞を解析する」と言っても越えなければならない技術的なブレークスルーは複数ある。まずはどうやって1つの細胞を取り出すのか。さらに細胞1つだけを見てもその中には解析対象となるRNA(DNAを鋳型として複製され、タンパク質の生成を左右する)の数は限られ、そのままでは解析できない。そこで、元の細胞を構成する割合を維持する形でRNAを生成し、増やす必要がある。
アカデミアから端を発したシングルセル解析だったが、2010年代の前半からビジネスへの転用を目指すフェーズに入り、10xなどのスタートアップが続々と誕生。製薬などの現場でもつかえるよう、技術とサービスの開発を進めてこうした課題を克服してきた。そして10xが2019年に上場したのを皮切りに、シングルセル解析のシステムを販売する米Berkeley Lights(バークレー・ライツ)やカナダのAbCellera Biologics(アブセレラ・バイオロジックス)が2020年に上場を果たしている。
研究から活用へ
シングルセル解析によって医療はどう変わるのか。例えばある抗がん剤を使用しても、効果がある人とない人がいる。そんな時、両者から血液細胞を採取して解析するとしよう。
従来の方法で複数の細胞を溶解して解析したとしても、違いはほとんど見つからないかもしれない。一方で、これを1細胞ごとに解析すると、薬が効いた人には5種類の細胞があったが、効かなかった人には4種類しかなかった、といった細かい違いが見えてくる。そうすることで薬効に関係する特定の細胞集団を特定できるようになる。
COVID-19が重症化する人としない人はどのような違いがあるのか、またワクチンの効果は人によってどのように異なるのかーー。パンデミック発生後、世界各地で進められてきた研究でもシングルセル解析が用いられている。
シングルセル解析によって疾患に繋がる因子を特定することで、効率的に新しい治療方法や薬を開発できるようになる。加えて、既にある薬についても効果がある人だけに投薬する、個別化医療の発展につながることも期待されている。
アカデミアやスタートアップが主役だったシングルセル解析だが、海外を中心に大手が実際に製薬事業で活用する動きも強まっている。ロッシュ傘下のバイオ大手であるGenentech(ジェネンテック)は2020年、米マサチューセッツ工科大学(MIT)の教授を勤め、シングルセル解析で第一人者と言われるAviv Regev(アヴィヴ・レゲフ)氏をExective Vice Presidentとして招き入れた。アカデミアから始まった新しい技術は製薬の現場で実際に使われる段階に近づいている。
スタートアップ投資ではバイオ・ヘルスケアに資金が集中
シングルセル解析を含むヘルスケア分野ではスタートアップによる調達額が大きく伸びている。全米ベンチャーキャピタル協会(NVCA)によると、2020年のセクター別投資額ではヘルスケアが465億ドル(約5兆1150億円)と、502億ドル(約5兆5220億円)のソフトウエアと並んで圧倒的に資金を集めた。
NVCAの調査によると、ヘルステックの中でも、バイオテック・ファーマ分野の伸びは目覚ましい。2020年の投資額は285億ドル(3兆1350億円)、件数は1069と、2015年に比べてそれぞれ2.6倍、1.5倍に伸びた。
2020年についてはCOVID-19をきっかけにワクチンや新しい治療法への関心が高まったことが背景にあるが、ここ数年で見てバイオテックやファーマへの投資額が増加している要因としては、投資家層の拡大が挙げられるだろう。
10xでも見られたようにまずはVCが多様化している。AirbnbやSlack、FacebookなどのITの雄に投資してきたAndreessen Horowitz(アンドリーセン・ホロウィッツ)は2015年に初めてバイオテックファンドを立ち上げ、スタンフォード大学で構造生物学やコンピューターサイエンスの教授を務めていたVijay Pande(ビジェイ・パンデ)氏をゼネラルパートナーとして迎えた。さらに2020年には7億5000万ドル(約825億円)の3つめのバイオファンドを立ち上げている。
ANRIで技術系スタートアップなどに投資している宮﨑勇典氏は「バイオの高度な解析が求められる機械学習の専門家については、従来からバイオに投資してきたVCよりも西海岸のVCの方がネットワークがある。西海岸のVCがバイオに積極的に投資をしている背景には、バイオ分野の新参者であるからこそ新しい取り組みをしているところに着目しているということと、こういった強みを生かせるという事情もあるのだろう」と話す。
こうしたVCの動きに加えて、Googleが血液の解析で癌の早期発見を目指すリキッドバイオプシーのFreenome(フリーノム)に投資するなど、GAFAやマイクロソフトなどのIT企業もバイオ領域への投資に積極的に乗り出した。こうした投資家の裾野の広がりが多額の資金供給に繋がっている。
シリーズAで70億円の調達も
さらに、バイオ・製薬セクターの足元の傾向としては設立後間もないスタートアップが大規模な調達に成功している点が挙げられる。2020年はスタートアップ投資全体で見るとCOVID-19の影響でリスク回避のためにレイターへの投資が増えたが、そんな中でバイオ・製薬セクターは設立後、初めて調達する際の総額が35億ドルと、全セクターで最高となった。
東京大学エッジキャピタルパートナーズ(UTEC)の宇佐美篤氏は「次世代シークエンスのillumina(イルミナ)やシングルセル解析の10xなど、ゲノム情報を集められるプラットフォーム型企業が急成長を遂げるようになっている。成功事例が積み上がってきたことで、より有望な新技術を持つプラットフォーム型のスタートアップに初期から投資が集まるようになってきた」と指摘する。
さらにこうしたプラットフォーム型企業だけでなく、創薬ベンチャーについても「人の体内状態を模した分析やコンピューター技術で速い段階で安全性、有効性が判断できるようになりつつある。バイオマーカーにより有効な患者を特定して臨床試験を行うため、成功確率を高めることも可能になってきた。こうした背景から、直近では米国でIPOするバイオの過半がフェーズ1までのアーリーなステージの企業で占められるようになっている」(宇佐美氏)という。
実際、2018年に設立され、シングルセル技術を使った治療法を開発するCelsius Therapeutics (サルシアス・セラピューティクス)は同年にシリーズAで6500万ドル(約72億円)を調達した。10xなどの成功例を背景にシングルセルの分野でも調達の大型化が進んでいる。
写真:Cinematik / Shutterstock.com
10xを凌ぐ技術を持つ日本のスタートアップ
米国ではシングルセル解析などの最先端の技術を手掛けるスタートアップが巨額の調達をして華々しくIPOに至っているが、日本はどうか。
実はシングルセル解析の先駆者ともいえる10xを上回る解析の精度を誇る日本のスタートアップがある。理化学研究所で培ったシングルセル解析技術を活用する2018年創業の「ナレッジパレット」だ。
13種類のシングルセル解析の技術について、それらを開発している企業や研究機関を対象に同じ細胞のサンプルを送付し、各自が解析した後にその精度を比較する国際研究が行われた。その結果は2020年に公表されたが、ナレッジパレットは10xを抑え、最も精度が高いと評価されたのである。
シングルセル解析と言っても同社のビジネスモデルは10xとは大きく異なる。10xは機械や試薬を販売するが、ナレッジパレットは製薬会社や研究機関との共同研究でシングルセル解析の技術を提供していく。創薬のプロセスでいくつかマイルストーンを設け、開発が進めばより多くのフィーがナレッジパレットに入ることになる。
同社の團野宏樹CEOは「機械や試薬を購入するだけでよい研究ができるわけではない。研究のデザインやデータ解析手法、技術を最大限活用する方法を理解した上で実施しなければ、プロジェクトは成功しない。シングルセル技術の開発者かつユーザーとして、たくさんのプロジェクトで成功を重ねてきた我々と共同であれば最も効果的な研究ができる」と強みを語る。現時点で既に複数の製薬会社と、シングルセル技術を使った創薬開発のプロジェクトに関する契約を結んでいるという。
同社は創業から3年間で総額7億円(融資等含む)を調達している。
写真:Gorodenkoff / Shutterstock.com
そのほかにも、早稲田大学発のbitBiome(ビットバイオーム)は10xが解析する動物細胞より小さな微生物についてシングルセルで解析する技術を開発した。同社はこうしたゲノム情報から創薬に活用できるような新しい有用物質を見出していくことを目指している。bitBiomeも2020年にシリーズBで7億円調達した。
AIによる細胞分析・分離システムを開発したシンクサイトは2020年にシリーズAで17億円、2021年にシリーズBで29億円を調達している。日本でも早い段階で比較的大きな調達をするスタートアップも出始めた。
参考:シンクサイト、世界初の技術をもとにシリーズBで総額28.5億円の資金調達
その背景には、バイオ分野への投資でリスクを取れる投資家が少しずつ増えてきたことがある。バイオ分野に積極的に投資してきたUTECのファンド規模は、2004年の1号ファンドでは80億円程度だったが、2021年の5号ファンドでは300億円規模まで拡大している。UTECの宇佐美氏は「5号ファンドでは1社あたりの平均投資額は10億円を想定しており、最大25億円まで投資できるようになる。大きなポテンシャルをもった企業に早い段階からまとまった規模で投資し、事業の垂直立ち上げと加速化を支援していきたい」と話す。
とは言え、やはり大型化が進む米国のバイオ関連と比べると、日本のスタートアップの調達額は大きく見劣りする。政府は2020年に10兆円規模の大学基金を創設し、その運用益を施設の運用や人材育成に充てる方針を掲げた。大学の研究力を向上させる目的だが、たとえ研究機関で有望な技術が生まれても、事業化を支えるための投資が足りなくては大きくは育たない。
例えばシングルセル解析で言えば、10xのような機器の製造・販売というビジネスモデルでは生産設備などへの投資が必要になるため、少額の調達しかできない日本のスタートアップが世界と戦うのは厳しいだろう。調達環境によって選択できるビジネスモデルが限られてしまうのだ。
ライフサイエンス分野へのスタートアップへの投資を盛り上げるためには、日本でも投資家層の拡大が欠かせない。米国のVCが一線で活躍する研究者を招きいれたように、アカデミアとVCとの人材交流を進める必要がある。
さらに、中長期的に見れば海外からの資金調達も1つの選択肢となるだろう。
現在、日本のスタートアップでもSaaSについては海外VCなどが徐々に投資を始めているが、バイオは国内の投資家がメイン。だが、バイオの技術については海外企業と比較をしやすく、調達という点でもグローバルな視点を持ちやすいと言える。スタートアップも英語の情報開示など、海外からの投資を呼び込む努力をすべきだ。
ある国内VCの投資家は「ITのスタートアップについてはメルカリなどが出てから圧倒的に資金調達環境がよくなった。特にSaaSに関しては、海外投資家も積極的にグロース段階で資金調達に入ってきている。バイオが海外の投資家に興味を持ってもらうためにも、多くの成功ケースを生み出していく必要がある」と指摘する。
SaaSについては海外投資家からの調達が増えているとは言え、評価されているのはあくまで国内事業について。顧客特性が違うことから、海外で成長している企業はまだ出ていない。一方で、バイオについてはその技術力が確かであれば海外で成功する確度高いのではないか。
日本のバイオは投資家とスタートアップ、ともに変革が必要なのは間違いないが、それを乗り越えた先にグローバルスタンダードな企業が生まれる可能性を秘めている。
(文:濵田尚子、編集:森敦子、デザイン:廣田奈緒美)